紫野春菜とソ~タに向けて、お話をします。囲炉裏端夜話みたいなものです。
むかしむかし、あるところに「ニワトリ牧場」という、ちいさな養鶏場がありました。放牧ではなくて、「平飼い」というスタイルなのですが、一応「牧場」というネーミングにしてありました。
「ニワトリ牧場」があったのは、冬には降雪量が5メートルを超える過疎の山村。当時の福井県大野郡和泉村というところです。
小生が誰の力も借りずに自力で建てた鶏舎には、多い時で500羽ほどの「赤玉鶏」がいました。「赤玉鶏」というのは、ゴトウ130とかワーレンとか、殻が赤味を帯びたタマゴを生むニワトリの総称です。
ニワトリが500羽いても、まだ中雛(ひな)はタマゴを産まないし、産卵を始めた成鶏も1年ほどすると産卵個数が減ってゆきますから、タマゴは多い時でもせいぜい200個程度です。
それを、紙のパックに入れて10個500円で販売していました。幸い、村の特産品にもしてもらったので、「ニワトリ牧場」の「平飼い自然卵」は、右から左へと順調にさばくことができました。
紫野春菜が生まれたのは、そのニワトリ小屋の中です。というのがホントならかっこいいんだけど、紫野春菜が生まれたのは母の実家のある福井県坂井町あたりです。
「ニワトリ牧場」で仕事をするのは日に2時間程度だったので、小生は昔取った杵柄(きねづか)で「フォーラム」というタウン誌を編集・発行したり、「日本耕作者会議」というサークルをつくって「森のフォーラム」や「小農塾」と称する勉強会みたいなものを開催したり、「耕作者」という機関誌を発行したりしていました。
「森のフォーラム」や「小農塾」は、当時自宅とは別に借りていた廃幼稚園で開催していたのですが、この集まりには「全学連」の元委員長であるところの藤本敏夫氏や、鳥取大学名誉教授・津野幸人(ゆきんど)氏らにも手弁当で出席してもらいました。
「ニワトリ牧場」へは、物珍しさも手伝って、村の子どもたちがちょくちょく遊びに来ていました。広場で、生まれたてのタマゴを茹でて食べたり、「子どもまつり」なるものを開催したこともあります。
そんなこんなで、小生の「農業小学校をつくりたい」というプロジェクトが醸成されてゆきました。
当時「緑健文化」というミニコミのようなものを発行されていた芦刈善造(釧路女子短大名誉教授)氏の呼びかけになる会合で、大人も気軽に出入りできる「農業小学校」というようなものをつくりたいという話をしたところ、その会合に来ていた共同通信の記者が短いベタ記事を配信してくれ、この記事をみた当時の高知県窪川町の町長から廃校舎提供の話があって、津野教授と二人で窪川まで出かけたのか゛94年の暮れでした。
窪川町の話は結果的には流れますが、このあたりで船は岸を離れ、翌年春に「ニワトリ牧場」はひとに託して、小生とその一家は滋賀県に移ります。この後のことは、先の「草の根農業(小)学校とは何なのか」に書きました。
話は「ニワトリ牧場」のあった和泉村にもどります。
「耕作者」2号の表紙に登場してもらった「ごんく」のおばあちゃんの畑が、「ニワトリ牧場」のとなりにあって、よくそこの畑でできた野菜を貰いました。「ごんく」というは屋号です。たぶんご主人か先代が「ごんく」さんだったのだろうと思います。
写真でも分かるように、ごんくのおばあちゃんは温厚で高齢で、いつもシルバーカートみたいなものを押して、田んぼの中の道をゆらゆらとやってきていました。そして仕事を終えると、また田んぼのなかの道をゆらゆらと帰ってゆくのです。
小生が、ごんくのおばあちゃんを写真に撮って「耕作者」の表紙にしたのは、ごんくのおばあちゃんが大好きだったからにほかならないのですが、そのごんくのおばあちゃんの家の近くに久保田さんという家があって、そこのミホちゃん(4歳か5歳)が、小生のことを「にわとり牧場さん」と呼んでくれていました。「ニワトリ牧場」とミホちゃんの家は300メートルくらい離れていたのですが、ミホちゃんはたまには一人で遊びに来ることもありました。
さて、「にわとり牧場さん」は、その後どこへ行ったのか。どこまで行けたのかというと・・・大きな湖の近くにある、さほど高くはない山のふもとで、馬の口をとらえてかろうじて生きながらえているのでした。
その近くには「馬の骨農業小学校」という小さな寺子屋があって、「にわとり牧場さん」は、そこの子どもたちが毬をついたり、畑に種を播いたりするところをとおくから眺めているのが好きなのでした。おわり。