「の~しょ~今昔物語」 その壱

1996年春、琵琶湖の南に位置する鶏冠山の麓-滋賀県栗太郡栗東町荒張に「草の根農業(小)学校」は誕生します。敷地は約3千平方メートル。

夜にはイノシシやシカが闊歩する山裾です。

この写真には、鶏舎や足場丸太で建てた塔のようなものが写っていますが、この写真は97年か98年のもので、開設当時は農地のほかには催事用のテントと仮設トイレがあるばかりでした。

この、にわかづくりの農場に100名を超す参加者が集まって、「草の根農業(小)学校」は赤んぼうが這うようにして歩み始めたのでした。

原野に盛り土をした農地は見るからに瘦せ地で、、トイレは穴を掘ってコンパネ4枚で囲っただけのもの。水道もなく、水は近くにある県の農業試験場から20リットルタンクで運んできていました。

宮下母子、大西父子、野村夫妻、木村ファミリーetc.が写っていて、懐かしい。

リヤカーは、天気村の辻さんが、彼女のおばあちゃんが使っていたものを持ってきてくれたものです。

看板は、つくる会の会員にもなっていただいていた湖南農業高校のA先生が作って持ってきて下すったものです。

こうして撮影時にどこからか持ってきているということは、まだ看板の場所さえ決まっていなかったのかもしれません、

そもそも、上の2枚の写真が96年のものなのか、97年のものなのかも分かりません。

当時、新聞各社がしばしば記事にしてくれたために、参加者はコンスタントに集まったものの、運営資金にも事欠くありさまでしたから、記録を残すということなど、まったく頭になくて、参加者名簿も残っていません。

当初、小生(セキタ)は安曇川町に住んでいて、ここ栗東に通い「草の根農業(小)学校」大山田教室にも出張し、「つくる会」の仕事にもそれなりに時間をとられ、という状態でしたから、まったく余裕はなかったのだと言い訳させてください。

写真は、昼食の副食の準備風景。包丁を使っているのが紫野春菜、右にいるのは木村みはるちゃん。たぶん、この頃は木村彰宏さんが写真を撮ってくれていたんだろうな。

「オニギリだけ持って、普段着で参加してください」というのが当初からのスタイルで、お昼の副食はこうして畑で採れたものを使って、みんなで調理していました。

施設は粗末というか、ないに等しかったものの、企図された「おままごと」としては大がかりだったのだと自負しています。

土と種と、あとは木の枝でもあれば農耕ははじめられるのである。