「Foreverくつき子ども村」2000~05年

文部省(現在の文部科学省)の委嘱を受けて「くつき子ども村」は、2000年の夏に記念すべき第一回を開催しました。会期は13泊14日。参加者は総勢62名。

初日の様子を見に来訪された当時の玉垣教育長が、「こんなたくさんの子ども、どうしはるんですか」と仰ったのが、いまでも記憶にあります。

平良分校のある朽木の平良(へら)は、当時も今も過疎の地域で、平良分校の休校前の児童数はおそらく数名という規模であったはずですから、そこに60数名が集うという事態は、もはや尋常ではなかったはずです。

日本全国数十か所で開催される文部省の肝いりプロジェクトであったことから、新聞各社が大きく扱ったために、募集開始当初から参加申し込みの電話はひっきりなしで、当初定員8人×4班で32名程度と決めていたものの、どうにも断り切れず、最終的に54人の参加を受け入れることになったわけです。

2000年のメモリアルブック 2-3page

参加者は大阪、神戸を中心に、近畿一円。この年のスタッフは寺沢健之、野村亨子をはじめ8名。平良分校の2階3室に2段ベットをならべ、廊下にも数台を置き、さらに1階の講堂兼体育スペースにもエアマットを敷き詰め、さながら災害時の避難所の様相を呈しつつ、13泊14日の共同生活が始まりました。

2000年のメモリアルブック 4-5page

食事の用意と後片付けは、班毎に交代で担当。朝食前の「針畑川でのせんたく」から、初歩の沢くだり、水上サッカー、水上キックベース、子ども村議会、村長選挙、肝だめし、ダンステンジク、子ども村まつりなどなど、多彩なプログラムを2週間にわたって、それこそ石段を一歩一歩這って登るようにして消化してゆきました。

2000年のメモリアルブック 6-7page

しかし・・・、初日の夜、そして2日目の夜、あの平良分校の南側の昇降口あたりで一服しながら、小生(セキタ)の頭をよぎる思いは「こんなことは、もうやめよう。こんなことは今夏限りにしよう」というものでした。

この頃だったか後年だったか、野村亨子も「わたし、子どもがキライです」とのたまったのですが、小生のみならずスタッフの心労は測り知れないものがありました。

とはいえ、3日目を過ぎ4日目あたりになると、騒々しかった子どもの群れは次第に落ち着きをみせ、それなりに秩序もでき、子どものムラが醸成されてくるのでした。

そうして会期の半ばをすぎると、人心はおおむね平定し(笑)、小生は13泊14日以上に拘った文部官の意向をようやく理解しえたのでありました。

2001年のメモリアルブック 表紙と裏表紙

さて、スタッフには多大な疲労を残しつつも、つつがなく2000年の夏の子ども村は終了し、これに懲りずに2001年冬の子ども村と春の子ども村を自主事業として開催、そして文部省の委託事業としての2回目の夏の子ども村を開催します。

がしかし、実を言うと小生のPCには2000年から2005年のデジカメ写真がないのです。

理由は二つ。この時期、子ども村がまだ「デジタル夜明け前」であったことと、Window2000&ME時代のよくある不手際としてのデータ喪失。

というわけで、下の写真を掲載するのみにて今回は終了。to be continue !

(お茶を濁すとは、このことだな)